20 11月

「物質に心の目を奪われた弟子たち」

古典中の古典の書には、「大麦のパン5つと小さな魚2匹」のたとえ話が記載されている。詳細な部分は省くが、次のような内容である。
男性だけでも五千人以上の群衆が、「ある男」の前に座り、メッセージを聴いていたそうだ。何故こんなに「この男」にそれだけの群衆を引き付ける力というか魅力があったのか。想像がつかないが、男性五千人という人数だけでも驚かされる。この群衆を前にして、空腹にある現実を感じた「この男」が、弟子に向かって「大麦のパンと5つと小さな魚2匹」しかないものを五千人以上の群衆に分け与えるように指示したという。弟子たちは、当然、目の前の群衆があまりにも多過ぎて、とても空腹を満たすことができないと判断して「この男」に訴えたが、とにかく分け与えるようにすすめた。そうしたところ、五千人以上の群衆が、全員が満腹(感)に満たされたいうたとえ話である。
これにはいろいろな解釈がなされている。大抵は、「奇跡物語」と解釈される。私は、このたとえ話から次のようにうけとめている。群衆に対するメッセンジャーとしての「この男」と「弟子たち」の『目線』の違いというか「立ち居地」というか、それが全然違っているところに大切なポイントとなる内容が隠されている。
具体的にいうと、弟子たちは、目の前に座る群衆の存在とその現実に目を向けるというよりは、「大麦のパン5つと小さな魚2匹」という物質に心の目が奪われていた。
「この男」は物質ではなく、目の前に座る人間存在とその現実に向き合っていた。ここには、大きな差がある。
弟子たちは、物質に心の目を奪われていたが「この男」は物質的なものが、多かろうが、少なかろうが、問題ではなかった。
「物質」を問題にする弟子たちの姿ではなく、人間存在とその現実に向き合っている「この男」の姿こそが、現代に求められているのではなかろうかと私は思うのだが、みなさんは、上記のたとえ話から何を感じ何をどうおもわれるのでしょうか。
最後に、人間存在とその現実に目を向けるだけではなく「この男」が群衆を信頼していたところにも注目したい。弟子たちはどうであったのか。